MXRの軌跡 Part2:ラックマウント時代とスタジオ機材、そして崩壊

「MXRの興亡史」シリーズ(全3部)の第2部です。


目次

ペダルボードから19インチラックへ

1970年代後半、MXRはコンパクトエフェクターの成功を土台に、新しい市場へと乗り出していく。プロのレコーディングスタジオやツアーミュージシャン向けの、19インチラックマウント機材の開発だ。

この動きは唐突なものではなかった。当時MXRはすでにストンプボックス市場で大きなシェアを握っており、デジタル処理という新しい波の先端にいた企業のひとつでもあった。足元のペダルボードで培った「良い音を、コンパクトかつ頑丈な筐体で提供する」というノウハウを、そのままスタジオグレードの機材に応用する形での多角化だったと言える。

ラインナップは2Uサイズのユニットから始まった。

  • M-113 Digital Delay:0.08msから320msまでのディレイタイムを持ち、追加のメモリーボードを差すことで最大1280msまで延長可能だった
  • M-124 Dual 15-Band Graphic EQ
  • M-126 Flanger/Doubler
  • M-129 Pitch Transposer

これに続いて、より機能を拡張したDelay System IIや、MXR初のマルチエフェクトプロセッサーとなるM-180 Omni(1983年発売)も登場する。Omniはサステイン、ディストーション、ディレイ、イコライゼーション、フランジャー、コーラスという6種類のエフェクトを1台に収めた2Uユニットで、足元で切り替えができる専用フットペダル(M-181)も用意されていた。マスターバイパスやエフェクトループまで備えており、当時としてはかなり野心的な設計だったはずだ。

これらのラック機材は、ギター信号(ハイインピーダンス)をそのまま受けられるよう設計されていたのも特徴だった。多くのプロ用ラック機材がライン信号・ローインピーダンス前提で作られていた中、MXRのものはギタリストがそのままプラグインしてすぐ使えるという「現場に優しい」仕様になっていた。この使い勝手の良さから、David GilmourやFrank Zappa、Brian Mayといった大物ミュージシャンにも愛用されている。Brian Mayは名曲「Brighton Rock」のエコーを、Delay System IIを2台使って再現していたという逸話も残っている。

スタジオ機材への挑戦:Dual Limiterという異色作

ラック機材の中でも、特にマニアックな存在として語られるのがMXR Model 136 Dual Limiterだ(発売時期は1980年前後とされる)。実はこれ、自分の手元にある機材でもあるので、ここは少し丁寧に紹介したい。

Dual Limiterが面白いのは、その回路設計だ。当時の一般的なコンプレッサーがVCA(電圧制御アンプ)やFETを使っていたのに対し、この機種はパルス幅変調(PWM)方式という珍しい方式を採用していた。オーディオ信号を超音波領域の細かいスライスに分解してエネルギーを制御するという、かなり異色のアプローチだ。この方式ゆえに、音の立ち上がりや質感が独特で、一部では「1176の貧乏人版」と評されつつも、「クリーンで透明」というよりは「ざらついていて骨太」という個性的なキャラクターを持つと言われている。

機能面では、2チャンネルをデュアルモノまたはステレオリンクで使い分けられる設計で、各チャンネルにIn/Out/Attack/Releaseの独立ノブ、4:1コンプレッションと∞:1(ブリックウォールリミッティング)を切り替えるボタンを搭載。背面にはXLRと1/4″TRSの両対応、さらに外部キーイング用のサイドチェイン端子まで備えた、なかなか本格的な仕様だった。

ユーザーの間でよく言われる裏技として、2つのチャンネルを直列につなぎ、1チャンネル目で速いピークリミッティング、2チャンネル目でゆっくりした音楽的なコンプレッションをかける、という使い方があるらしい。手元の実機が動作すれば、ぜひ試してみたい使い方だ。

なお、ヴィンテージ個体にありがちな注意点として、内部の電圧レギュレーターが高熱を持ちやすく経年でコンデンサーが劣化しやすいこと、また一部の個体はXLRのPin 3がホットに配線されている(現在の標準はPin 2ホット)ため、現代のスタジオ機材と組み合わせると位相トラブルが出る可能性があることも指摘されている。実機を動作確認する際は、この2点は頭に入れておいて損はなさそうだ。

なぜコンパクトペダルの会社がスタジオ機材まで手掛けたのか

ここで少し立ち止まって考えたいのは、「なぜMXRはペダルだけに留まらず、ここまで手を広げたのか」という点だ。

推測にはなるが、当時のMXRはすでにペダル市場で確固たる地位を築いており、次の成長エンジンとして「プロオーディオ」「家庭用オーディオ」という隣接市場への拡大を狙っていたのではないかと思われる。実際、この時期のMXRは家庭用オーディオ製品の開発にも着手していた。エフェクターメーカーとしての技術力を、より広い市場に展開しようとする野心があった時代だったのだろう。

しかし、この多角化路線は皮肉にも、後の崩壊の一因にもなっていく。

1984年、崩壊

1984年、MXRはオリジナルのペダルラインを終了し、より安価なSeries 2000シリーズに置き換える。黒いケースを採用したこのシリーズは、当時勢いを増していたBOSSやIbanezといった日本メーカーのデザインの影響を色濃く受けたものだった。

しかし、この方向転換も焼け石に水だった。社内の労働争議と、主要株主との対立が深刻化し、1984年が終わる前にMXRは廃業に追い込まれる。

日本メーカーの台頭という外的要因、多角化による経営資源の分散、そして内部対立という内的要因が重なった、典型的な「栄枯盛衰」のパターンと言えるかもしれない。

Alesisへ、ARTへ — ブランドの分裂

倒産後、MXRの中心人物たちはそれぞれ別の道を歩む。

Keith Barrはハリウッドに渡り、Alesisを設立。手頃な価格帯のデジタルリバーブやドラムマシンの開発に取り組んでいく。後年、Barrは多くのペダルメーカーが今も採用するFV-1というDSPチップまで開発しており、根っからのエンジニアとしてのキャリアを最後まで貫いた人物だったようだ。

一方、Terry Sherwoodと、MXRの管理職・エンジニアだったJohn Langlois、Phil Betette、Tony Gambacurta、Richard Neatourらは、ロチェスターに残りApplied Research and Technology(ART)を共同設立する。

その後を眺めると、AlesisはADATで一時代を築きながらもハードディスクレコーディングの波に飲まれ、ARTもニッチなプロオーディオメーカーとして生き延びてはいるものの、かつてのMXRのような存在感は失っている。同じ会社の崩壊から生まれた2つのブランドが、それぞれ別の技術トレンドに敗れていったというのは、なかなか皮肉な話だ。

面白い裏話としては、1980年代半ば、MXR(というよりMXRブランドの製造元)はロチェスターの隣人であるARTと提携し、ART 01Aデジタルリバーブをリブランドした「MXR 01A」を製造・販売していたという記録も残っている。倒産直前・直後の時期に、かつての身内同士がビジネス的に交錯していたというのは、この業界の狭さを物語るエピソードでもある。


Part2はここまで。次回Part3では、3年間の空白期間を経て1987年にJim Dunlopがブランドを買収し、現在のMXRデザインチームへと至る道のりを追っていきます。

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